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ページ番号:2364
掲載開始日:2023年11月29日更新日:2023年11月29日
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1964「私たちが見たオリンピック」
このページでは、平成28年6月20日号の市報記事「1964年東京オリンピックの思い出写真と体験談募集」に寄せられた体験談等の中から、市報に掲載した内容をまとめて紹介しています。
見出し一覧
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号名 | 見出し |
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平成29年9月20日号 | マラソン競技の作文が本に掲載 |
平成29年9月5日号 | 水泳競技のラジオ放送で音声技術を担当 |
平成29年8月20日号 | 円谷幸吉(つぶらやこうきち)選手のチームメイト |
平成29年5月5日号 | 若者たちがつないだ聖火リレー |
平成29年4月5日号 | 自衛隊によるオリンピックの支援業務 |
平成29年3月5日号 | 得意のスペイン語を活かした通訳の仕事 |
平成29年2月5日号 | 女子選手村の通訳として |
平成28年12月5日号 | 家族で観た国立競技場のオリンピック |
平成28年11月5日号 | 東京オリンピックの記録映画制作に携わって |
平成28年10月5日号 | 調布市赤十字奉仕団のボランティア活動 |
平成28年9月5日号 | 聖火リレーに参加して |
平成29年9月20日号「マラソン競技の作文が本に掲載」
市立石原小学校の児童だった新井昭子さんは、オリンピックのマラソン競技を見たことを今も鮮明に覚えています。当時、観戦の興奮が冷めないうちに、作文を書いて担任の先生に見せたところ、先生がオリンピックの作文集に応募して、『世界を結ぶ東京オリンピック 小学校篇』(第18回オリンピック東京大会組織委員会団体入場連絡協議会編 清水書房発行)に掲載されました。今回はその作文を一部紹介します。
「今日はマラソンの日です。わたしはものほしで見ていました。大きな声をだしたので、のどが痛くなってしまいました。せんとうは、アベベ選手です。アベベ選手は、はじめはうしろのほうでしたけれど、だんだん速くなってきたのです。帰りにうちの前をつぶらや選手がとおりました。つぶらや選手は、十位くらいでした。わたしはそれからずっとテレビを見ていました。国立競技場にアベベ選手が入ってきました。一位はアベベ選手です。二位はつぶらや選手か、イギリスの選手です。国立競技場に入ってから、つぶらや選手はぬかれてしまいました。だから、つぶらや選手は三位になってしまいました。がんばりやのつぶらや選手は、ゴールインしてからたおれてしまいました。でも、たちあがって銅メダルをもらいました。私はそれを見ていた。ほんとうによくがんばったと、むねがいっぱいになりました。」
(注)原文でひらがな表記された箇所を一部漢字に直しています
平成29年9月5日号「水泳競技のラジオ放送で音声技術を担当」
水泳競技会場での高木さん
東京内幸町のNHKに勤めていた高木忠雄さんは、代々木の水泳競技場内にマイクロホンをセッティングして、場内アナウンスやスタートのピストル発射音、場内の声援など、競技の緊迫した状況をまとめて、海外の放送機関に送り出す音声の仕事を担当しました。仕事の交代で時間が空くと、インタビュールームに行って、選手の写真を撮影したり、サインをもらったりしました。
水泳競技での各国のメダル獲得数はアメリカが29個、オーストラリアが9個、東西統一ドイツが6個で、日本は最後の男子800メートルリレーで銅メダルを獲得しました。当時、日本では、水泳競技の人気があまりありませんでしたが、今では隆盛を極め、東京2020大会もメダル獲得が期待されており、高木さんは時代の変化を感じています。
高木さんは、1964大会当時のアメリカチームのメダリストたちに56年ぶりに再会できることを夢見ています。
平成29年8月20日号「円谷幸吉(つぶらやこうきち)選手のチームメイト」
西片さん(左)と円谷さん(右)
西片甫(にしかたはじめ)さんは、自衛隊駅伝チームに所属していた頃、後に1964年東京大会のマラソン競技で銅メダルを獲得して、国立競技場に日の丸を揚げることになる円谷幸吉選手と同じチームに属していました。
西片さんは、新潟県立栃尾高校在学中に陸上部に所属し、高校を卒業して自衛隊に入隊してからも陸上を続け、自衛隊の東部方面隊代表チームの選手になりました。昭和34年からは3年連続で全日本駅伝大会に出場しています。
当時、自衛官だった円谷幸吉さんも福島県代表として出場した都道府県別駅伝大会で好成績を収め、西片さんと同じ駅伝チームに加わりました。円谷さんは、東北人らしい粘り強さで黙々と練習に取り組む一方で、生来明るい人でした。そのこともあり、チームの雰囲気はいつも和気藹々(あいあい)としていました。
その後、西片さんは、1963年に自衛隊を退官し、調布市内の榮太樓に勤めました。1964年のオリンピックのマラソン競技の際には、会社が敷地内に特設応援席を設けてくれ、西片さんを含む社員全員で甲州街道を走る選手に声援を送りました。東京2020大会では、未来を担う子どもたちに、西片さんが感じたような感動と興奮を味わってもらいたいと思っています。
平成29年5月5日号「若者たちがつないだ聖火リレー」
第1走者の大塚一郎さん
中学、高校で走り高跳びの選手だった大塚一郎さんは、高校生の時に東京都大会で優勝、全国で5位の好成績を記録し、オリンピックでは、調布市の聖火リレーの第1走者を務めました。
リレーは、市内の甲州街道約6キロを3つの区間に分け、10月8日に雨の降る中で行われました。飛田給マラソン折返し地点で府中市から受け継ぎ、「電気通信大前」、「調布警察署前」を経由して、「仙川有料駐車場前」で三鷹市(正しくは世田谷区。令和5年11月追記)へ引き継ぎました。1区間を、正走者1人、副走者2人、随走者20人で走り、走者の多くは10代の若者でした。大塚さんは、陸上競技の審判の資格を持ち、今年の東京マラソンでも審判を務めました。2020年にも何かできることがあればと思っています。
母親のタケさんが亡くなり、遺品を整理していた時に、大切に保管されていた当時のユニフォームが出てきました。
平成29年4月5日号「自衛隊によるオリンピックの支援業務」
山本信顕さん
東京オリンピックの選手村の運営、選手・役員の輸送、開・閉会式や競技をはじめ、航空・衛生・通信などの支援業務に陸・海・空の自衛隊員と防衛大学校生約7,600人が携わりました。支援のため、陸上自衛隊は、市ヶ谷に「東京オリンピック支援集団」を臨時編成しました。
山本信顕(のぶあき)さんは、昭和38年9月、突然、陸上自衛隊幕僚監部の「オリンピック準備室」(後にオリンピック支援集団司令部)に異動になり、予算を担当することになりました。
予算業務は、規則にない要求項目が次々に出され、「大会組織委員会の予算か国の予算のいずれが執行上妥当か」と、前例が少ない中で熟慮する日々でした。「国を挙げての行事だから予算も何とかできないか」と頼まれることが多く、「税金を充当する以上、納める人が納得できることが大事だ」という議論を重ねるなど徹夜の連続でした。
大会の黒子に徹した隊員の奮闘ぶりは、「東京オリンピック作戦-支援に参加した自衛隊員の手記」(朝雲新聞社 昭和40年発行)で紹介されています。
平成29年3月5日号「得意のスペイン語を活かした通訳の仕事」
ユニフォーム姿の野和田さん
野和田リー子さんは、東京の五日市から南米ブラジルに移住した父の仕事の関係で、ブラジルのバストス日本人移住地で生まれました。その後、移り住んだパラグアイはスペイン語圏でしたが、日本の軍国教育も受けたので、日本語もしっかりと勉強しました。戦後になって、JICA(ジャイカ)(国際協力機構)で働き、日本人の同僚と結婚し、27歳の時に初めて日本へ来ました。
東京オリンピック開催に当たり、スペイン語通訳者を派遣するよう勤務先に要請があり、野和田さんに白羽の矢が立ちました。配属されたのは、選手村のインフォメーションセンターで、ほかのスペイン語通訳者からも頼りにされる存在でした。
また、東京の次のオリンピック開催地メキシコ・シティから視察のために訪れた選手村の運営責任者の通訳として、選手村運営をくまなく見ることができました。責任者のカルメンさんから「日本人の素晴らしさをメキシコにぜひ伝えたい」と、メキシコ行きを要請されましたが、子育ての最中だったため実現しませんでした。
オリンピックを通して世界各国の人の日本に対する認識が変わり、日本を理解してもらうことにつながったと思っています。
平成29年2月5日号「女子選手村の通訳として」
春日野部屋にて
子どもの頃、進駐軍の英語を耳から覚え、米軍属の語学塾に通い、青山学院大学で英語を学んだ森谷淑子さん。当時、子育て真最中でしたが新聞社勤務のご主人の勧めで、難関の通訳採用試験(英語は30倍)を受験し、見事突破。代々木の女子選手村に通訳として配属されました。
女子フェンシングで個人・団体ともに金メダルを獲得したハンガリー代表団から「競技場で応援するあなたがいたから勝てたのよ」と感謝され、お礼に全員のサイン入りのフォイル(フェンシングの剣)を贈られ、その様子がNHKニュースで紹介されました。また、日本の国技である相撲を紹介するため、金メダリストたちを春日野部屋に案内したり、日光へのドライブに誘うなど文化交流にも努めました。
平成28年12月5日号「家族で観た国立競技場のオリンピック」
家族で陸上競技を観戦した国立競技場
当時、都立深川高校の生徒だった蒲生明子さんは、家族で陸上競技の予選を国立競技場で観戦しました。
大会期間中、学校の体育の授業では実技を行わず、クラス全員が白黒テレビで競技を観戦しました。また、都立の学校だったので学校に入場券の割り当てがあったのか、一流のアスリートたちの競技を生徒たちに観戦させようと、先生が会場での観戦を希望する生徒に入場券を配りましたが、観戦する競技を選ぶことはできませんでした。重量挙げの入場券をもらった友人は当初、「あまり興味ない」と言っていたにもかかわらず、東京大会の日本の金メダル第1号となった三宅義信選手(三宅宏実選手の伯父)の試合を見ることができたと喜んでいたそうです。体操競技の運営の手伝いをした体育の先生から、チェコスロバキアのベラ・チャスラフスカ選手を間近に見た話を聞き、蒲生さんたちはうらやましく思ったそうです。
平成28年11月5日号「東京オリンピックの記録映画制作に携わって」
東京オリンピック映画協会から贈られた感謝状
林昭則さんは、社団法人東京オリンピック映画協会のスタッフとして記録映画の制作に携わりました。映画協会から贈られた感謝状は、息子の秀樹さんの婚約者が自宅にあいさつに来た時に、壁からわざわざ取り外して見せたほどの自慢の品でした。昭則さんが亡くなった後はしまってありましたが、2020年のオリンピック開催が決まった時にもう一度取り出しました。
映画は、市川崑総監督の下、540人のスタッフが参加し、103台のカメラ、230本に及ぶレンズを駆使して制作されました。脚本は監督自身とともに、和田夏十さん(市川監督夫人)、白坂依志夫さん、谷川俊太郎さんが「平和と友情」をテーマに執筆しました。スタッフは、オリンピックの記録映画史上初となるステレオ・サウンド録音や明るい撮影レンズ、室内競技を妨げないまぶしくない照明などを研究し、多くの新技術が開発されました(国際情報社「東京オリンピック記念特集号」1964年)。
完成した映画は、単なる記録映画ではなく選手それぞれの内面的なものを捉えることなどへのこだわりを持った作品であったため「記録か芸術か」という論争を巻き起こしましたが、1965年のカンヌ国際映画祭で国際批評家賞を受賞しました。
平成28年10月5日号「調布市赤十字奉仕団のボランティア活動」
清掃の様子
昭和39年10月10日の開会式に先立ち、東京都では9月27日から10月3日を「首都美化総点検週間」と定めました。アジアで初めてのこのオリンピックには、史上最多の参加国・参加人員が見込まれ、各国の選手・役員・お客さまのために、都民が力をあわせて東京をきれいにしようと、環境整備を呼び掛けました。
調布市では、市内を通る甲州街道がマラソン競技と50km競歩のコースとなり、調布市赤十字奉仕団のボランティア延べ1000人が、大会の1カ月前から沿道の清掃活動を行いました。団員たちは「選手が走るのに、クギ1本でも落ちていたら大変」と、ほうきとちり取りを持参して、雑草が伸びていた沿道を清掃しましたが、壊れた自転車やリヤカー、冷蔵庫まで出てきました。これらの不法投棄のごみは、市のトラックが回収しました。
競技当日は、当時の市民の1.5倍にあたる15万8200人の観客が、沿道で熱い声援を送りました。
平成28年9月5日号「聖火リレーに参加して」
聖火のトーチを手にした太田さん
当時、神奈川の鶴見工業高校2年生(17歳)で陸上1500m障害の選手だった太田敏夫さんは、聖火リレーの随走者として横浜市内の約2キロを走りました。定時制高校で学びながら働いていたため、一度はリレー参加を見送りましたが、会社の仲間の後押しを受けて参加しました。リレーチームは区間ごとに、正走者1人、副走者2人、随走者20人で構成されました。ギリシャで採火された聖火は、昭和39年9月7日にアメリカの統治下にあった沖縄に到着し、そこから国内4コースに分かれて、10万713人の走者によってリレーされました。その多くは10代の若者でした。
太田さんは、2020年に現在の中学生が自分のように聖火リレーに参加する可能性も十分あると話しています。