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ページ番号:2359
掲載開始日:2014年4月24日更新日:2014年4月24日
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調布市のあゆみ
- 旧石器・縄文・弥生時代 「はけ上」に縄文時代の遺跡
- 古墳・奈良・平安・鎌倉時代 広がる古代の村、そして武士の時代へ
- 江戸時代 甲州街道と布田五宿
- 明治時代 調布町と神代村が発足
- 大正時代 京王線の開通で郊外住宅地に
- 昭和時代 人口の増加とまちの発展
- 平成から未来へ
旧石器・縄文・弥生時代
「はけ上」に縄文時代の遺跡
広大な武蔵野台地の南縁に位置する調布市の地形は、多摩川によって形成された2つの段丘と沖積低地からなっています。段丘と段丘、段丘と低地の境には急な崖があり、古くから「はけ」と呼ばれています。そしてこの「はけ」から湧き出す水や、そこからの流れに沿って、はるか昔から人々の暮らしが営まれてきました。
調布市の縄文時代の遺跡は、飛田給・下布田・東原など、やはり湧き水の得られる「はけ上」に分布しています。なかでも下布田遺跡は縄文時代終末期(約2500年前)の墓や祭りに関する遺構・遺物が多数発見され、昭和62年5月、国の史跡に指定されました。また、ここから出土したバラの花を思わせる華麗な立体文様の土製耳飾りは美術工芸品としてもすぐれ、国の重要文化財となっています。
下布田遺跡出土の土製耳飾り
古墳・奈良・平安・鎌倉時代
広がる古代の村、そして武士の時代へ
多摩川の流域では4世紀に入ると古墳が造られ始め、市内でも5から7世紀にかけて造られた飛田給・下石原・上布田・下布田・国領南などの古墳群が知られています。墳丘部分はすでに削られ、一目で古墳と分かるものは残っていません。
また、各遺跡からは、この時代の住居跡や掘立柱建物跡などがみつかっています。
武士の時代となった鎌倉時代以降は、多摩川とその周辺が度々合戦の舞台になりました。国の史跡深大寺城跡も戦国時代の遺産で、文献によれば深大寺城は扇谷上杉氏が小田原の北条氏に対抗するために再興したものとされています。また、布多天神社には秀吉が小田原攻めに際して乱暴狼藉を禁止した「太閤の制札」が残っています。
深大寺城復元推測図 「図説 調布の歴史」より
江戸時代
甲州街道と布田五宿
江戸に幕府を開いた徳川家康は、全国の交通網を整え、江戸と諏訪を結ぶ甲州街道を重要路線として整備しました。調布市内では、国領・下布田・上布田・下石原・上石原が宿場となり、「布田五宿」として宿場のつとめを交替で果たしました。この宿場は長さ3キロメートル余り、街道沿いにまち並みができました。しかし、旅籠は幕末の天保14年ごろでも9軒しかなく、宿継ぎ中心の宿場でした。
江戸時代、調布市域の村は18か村を数えましたが、その大部分は天領(幕府の直轄地)と旗本領でした。
天保5年には、上石原の農家宮川家で、後に幕末動乱の京都で新選組局長として討幕派と戦い一躍名を高めた近藤勇が生まれています。
近藤勇生家跡
明治時代
調布町と神代村が発足
明治維新の後、調布市域は品川県・入間県・神奈川県などと目まぐるしく変わり、東京府に属するようになったのは、明治26年のことでした。
この間、明治22年には、市制・町村制が施行され、調布町と神代村が発足しました。
明治時代の多摩地域では、自由民権運動が盛んで、国会開設の詔が発せられた明治14年には、村の有力者を中心に自治改進党が府中市で結成され、活動も活発でした。
教育にも力が注がれ、明治5から7年にかけて滝坂・深大寺・布田・石原・国領に学制による学校が開校しました。
また、明治4年には深大寺村名主、富沢松之助の私財を投げうっての努力により、深大寺用水が完成しています。砂川用水から梶野新田までの14キロメートルに及ぶ水路の改修と市域内(神代村)13キロメートルを掘削したこの用水は、昭和27年ごろまで大切に利用され続けました。
明治時代末期の甲州街道
大正時代
京王線の開通で郊外住宅地に
大正2年、京王電気軌道(京王線)の笹塚から調布間が開通しました。大正4年には新宿から調布間、その翌年には調布から多摩川原間、調布から飛田給・府中と路線を伸ばしていきました。
調布市域はこのころから行楽地・郊外住宅地として注目されるようになり、大正12年の関東大震災をきっかけに多くの人々が移り住み、工場も進出するようになりました。
昭和の初めには、京王閣や日活撮影所などの近代的な建物に続いて商店や料亭などが続々とできました。
昭和6年には、甲州街道が舗装され、昭和10年には稲城村と調布町を結ぶ多摩川原橋が架橋され、産業開発と交通の発展に大きく寄与しました。
太平洋戦争が始まり、戦時中は市内でも何度か空襲を受けました。しかし、人口も着実に増え、まちづくりも大きく進むことになりました。
京王電気軌道開通当時の調布駅
昭和時代
人口の増加とまちの発展
昭和30年、調布町と神代町が合併し、人口4万5090人、1万391世帯の「調布市」が誕生しました。
昭和39年の東京オリンピックでは、甲州街道がマラソンコースとなり、飛田給が折り返し地点になりました。
このころから、団地が造られ、人口も急増。昭和40年には10万人を突破し、世帯数も2万8647世帯になりました。調布は毎年のように全国で人口増加率上位都市にランクされ、市では都市計画、総合計画により環境整備の取組みを始めました。
町制施行当時の神代町役場
平成から未来へ
時代の変化とともに、人々の価値観が「もの」から「こころ」に変化してきました。そうした中で平成24年6月、調布市基本構想で目標を「みんなが笑顔でつながる・ぬくもりと輝きのまち調布」と定め、市民・関係団体・行政がそれぞれの役割を担い、協力しあいながら新しいまちづくりを進めています。
調布市は、平成27年に市制施行60周年を迎えました。